再見「ロングランエッセイ」の+と-
39:「 棟梁:小島余市 」 住宅雑誌リプラン54号(2001年10月1日)より一部転載
円山公園に隣接して建っていた斎藤秀雄邸が、去年の暮れに解体され、円山界隈の魅力的な住宅が、またひとつ消えた。残念である。
施主の斎藤秀雄氏は、外国雑誌の写真を見せながら、あ~しろこうしろと口うるさく注文をつけたようである。それらの注文を聞きながら、一軒の家にまとめ上げたのが、小島組の棟梁・小島与市、三十六歳の時である。当時の住宅は、ほとんど棟梁の設計施工で造られていた。そのため棟梁は、設計的なセンス、美術的な素養も必要とされ、単に木工技術が優れているだけでは、一流の棟梁と呼ばれなかった。
住宅は、住む人、考える人、造る人が、三位一体となって初めて、良い家ができ上がる。特に昭和の初め頃の棟梁は、考える人、造る人の両方に力を発揮させた芸術家と言ってよい。それに比べて近頃は、棟梁の力量を問題にすることが、あまりにも少ない。と言うより、無いに等しい。しかし、今こそ棟梁の腕前を大事にしないと優れた大工技術が消滅する。小島与市を筆頭にした棟梁の業績を見直して、棟梁の存在とその技量を考えたい。
+:棟梁が、少なくなった。というより居なくなった。棟梁は、手間賃だけをいただいて仕事をするもので、家に使う材料は、家主に支給するものだから、材料の良し悪しは、旦那の懐具合で決まった。高い材料を用意しても、棟梁の腕前が悪ければ、家の出来栄えは良くなかった。しかし、本当に腕の良い棟梁は、材料の良し悪しを超えて、上手な仕事をするので、出来栄えが良い家になり、ますます、腕が良いと評判になって、仕事がつながった。というのは、昭和の時代に終わっていたようだが、わたしは、最後の方の棟梁に巡り合っていたと思う。
今は、断熱、暖房、冷房、キッチン、風呂、洗面、トイレ、洗濯水回りのやりくりだけで、手も足も頭も、いっぱい、いっぱいで、棟梁の腕を発揮できるところがない。さらに、プレカット部材の組み立て作業に追いかけられるから、墨壺も要らなくなったが、電動ノコギリや電動釘打ち機を投げたくなる。おまけにこれらは、大量生産、大量販売、値引き合戦のなかで、坪幾らで引き受けるかと脅されては、棟梁も投了である。
ついに棟梁の仕事が、神社仏閣と茶室に限られてしまったのが残念である。味わいのある住まいを造りたいものである。