再見「ロングランエッセイ」の+と-

60:「 終着駅 」  住宅雑誌リプラン75号(2007年1月1日)より一部転載

 久しぶりに函館に来た。四十五年も前、船底のぎゅうぎゅう詰めの三等船室のこと、小雪のちらつくなか接岸するのを見ながら甲板に並んだこと、とてつもなく長い函館駅のホームを荷物を抱えながら走ったことも思い出した。
 新しくなった函館駅に着いて朝市に向かったら、あっという間にするすると朝市に着いてしまった。ホームに降りてから階段を昇り降りせず、エスカレーターもエレベーターも使わないで、まっすぐ歩いて行けた。駅がまっすぐ街につながっている感じがした。
 ヨーロッパの主要な都市では、都市ができてから鉄道が引かれたため、入り口としての終着駅がいくつもつくられた。平らに、そのまま街に入っていけるので、駅に降りたというより、街に降りたという感じがする。終着駅の函館ではこの雰囲気をつくれるが、札幌や小樽などの通過駅ではつくることができない。
 終着駅では、扇状に広がるホームから発車したり、到着してくる汽車を正面から見ることができるので、夜汽車の発着は郷愁を誘うに違いない。終着駅こそ、本当の駅ではないかと思った。
 通過駅でない終着駅のような家があるような気がする。

+: 初めから、通過駅ではない、終着駅の家をつくってきたおかげで、二十五年経っても、愛着を持って暮らしてくれる人が多い。二十五年前の建築技術が、しっかりしていたことと、造る人と造ってもらう人の間に、しっかりした信頼があったからだと思う。三角屋根ブロック造のブロック壁を残して、一部増築したもので、建ててから十五年になる家の人からも「今年で、八十六になるが、住みやすい家にしてもらったので、一人ですが、頑張って長く住みたいです。」と便りがきた。ブロックの家の一部解体をした時「大工さん達の仕事が丁寧だ」と周りの人達から褒められたこともあって、出来た家にいっそう愛着を持つようになったと思うが、大工さんたちに感謝である。