再見「ロングランエッセイ」の+と-

54:「 微 風(そよかぜ)」  住宅雑誌リプラン69号(2005年7月1日)より一部転載

 今年は、五月になっても寒い日が続いて桜もおくれた。寒さが続いたせいか、こぶしも桜も木の芽もいっせいに開いたように、爽やかな春の芽吹きというより、晴れやかな感じのする丘のあまりの爽やかさに思わず車の窓を開けると、外の空気が車のなかに一気に入り、春のすがすがしさに満ちた。その心地よさに窓だけでなく車のドアを開け放してみると、顔だけでなく足元から、からだ全体を包むように微風が吹き抜けていく。春の風のなかに居る、春の息吹のなかに居る、と思えた。
 家のなかに居ても、この「春の息吹のなかに居る」を実感できるようにしたい。こんなに爽やかな風を恵んでくれている春の天気に申しわけない。春のこの一瞬だけかもしれないが、この北海道の春の「とっておきの風のご馳走」を無駄にしてはなるまい。断熱や気密をやめようというのではない。なんでも数字に置き換えて性能数値を追い求めること以上に、数字に表しにくい、この春の空気や風の爽やかさを求めることがたいせつである。

+: 春の風だけが、微風ではないと思った。九月初めに、アルテピアッツア美唄の三十周年記念の安田侃さんの話を聞きに行った。侃さんの優しい語り口のせいで、こちらの気持ちが広がっていたせいもあるが、夕暮れが迫ってくる丘には、爽やかさとは少し違うが、穏やかな微風(そよかぜ)を感じた。ちょうど、柚木沙弥郎の布が、木造校舎の展示スペースに掛けられていて、引き違いの木製窓から入る風にそよいでいた。無色透明ではない風が、アルテピアッツアの丘に広がる優しさが、出たり入ったりしているように思え、空気に着いてる色も香りも心も意志も見えた気がした。この瞬間しか、感じれないだろうな!と思った。これは、アルテピアッツアの丘全体、周りの森も含めた全部が無いと生まれないから、この丘全体を残さなければならない。広い墓地の丘の向こうに大きな十字架が見える、著名なスウェーデンのアスプルンドの墓地の丘のように、誰もが、来れるようなところに出来ないかという思いが湧いた。不謹慎かもしれないが、誰もが自由に、個人を偲んで来れる、美しい丘になるなら、考えても良いのではないだろうかと真面目に思っている。